孫がむづかるので

「孫がむづかるので、もう、あす歸らうと思ひますが、自動車は癪にさわりましたから、馬車にしようと思つてます」と云つた。馬車で新鹽原まで行き、それから輕便鐵道の便があるのだ。
「僕も歸る時にはさうするかも知れません」と答へた。然し、旅へ出てゐても腰を据ゑてるあひだは、二度と來るか來ないは考へるが、まだ左ほど歸りのことが苦にならぬものだ。
 十月三十日。晴。けさの二時に『子無しの堤』と云ふ、實際に人間らしい小説を五十三枚書き終はつたので、十時に起きて食事をすませると、一と息入れて來るつもりで車上を奧の方へ行つた。福渡りの宿屋が並んでる道を三四丁も行くと、その突き當りに白倉山のふもとなる天狗岩と云ふ大きな石が山にべッたりと廣がつて屹立して、その周圍もみなこうえふだ。
 そのけはしいやま裾を左りへ曲つたところに、直ぐ退馬橋がかかつて、川添ひ道が走つてゐる。然し、橋からまた直ぐのところに横へ左りに渡る橋があつて、そのさきは植竹氏私有の公園だと車夫は説明した。そこにも樹の葉の色に照つてるのが望める。植竹氏の第四子に當る人は東京に出版屋をやつてたこともあつて、僕も直接知らないでもないのだから、この公園の名も多少の親しみがあつた。それをながめながら、川のこなたを進んだ。